鹿児島県鹿児島市 宇宿商店街 頑張っている小さな商店街!

宇宿商店街振興組合

宇宿商店街の歴史

(1)宇宿の由来

薩摩国○山群の由来のうち、建治2年(1276年)9月13日の忠真譲状に「ゆつりわたすたにやまのうちうすくのこうにおきては、三郎にえいたいをかきてゆつりわたすところ・・・・」との記録あり、山田中忠真(父は忠継で山田氏の初代(忠継は島津本家二代忠時の庶長子))から三男直久に宇宿村地頭所を与えている。(山田文書/旧記雑録)下って、応永6年(1399年)2月29日付の島津元久奇進状では村内の永田が福昌寺に奇進されている。(福昌寺文書/旧記雑録)江戸時代における村高は「天保郷帳」では1,530石余り、「旧高旧領」では775石余りであった。

家系図

明治4年(廃藩置県)からは鹿児島郡鹿児島に所属、「県地誌」によれば戸数456、人口2,087人であった。明治22年(市制および町村制の施行)から昭和9年までは中郡宇村の大字名となった。(鹿児島郡中郡宇村)昭和9年鹿児島市との合併により鹿児島市宇宿町となる。第二次世界大戦後の海岸埋立工事・丘陵宅地開発の進行にともない、急激に住家・人口が増加。一部が昭和45年日之出町、紫原1~7丁目、同48年宇宿1~3丁目、新栄町、同53年桜ヶ丘1~7丁目となる。今日の宇宿とは、昭和48年から現在に至る鹿児島市の町名で1~5丁目からなり、元来は鹿児島市宇宿町・郡元町の各一部である。

(2)宇宿の語源

宇宿の地名が文献に現れるのは1200年代鎌倉時代の中期で「うすく」と仮名ででてきていますが、いつの時代から「うすく」または「うすっ」と呼ばれたかは明確でないが、もともとの語源は「うすく」であることがわかる。アイヌ語に「ウシケ」という言葉があり「ウシ」は湾のことで、「ケ」は所を意味しており、「ウシケ」というのは湾に面したところ・・・すなわち「浜辺」という意味で、アイヌ語から来たものだという説もあるそうです。この辺りの地形からみると宇宿は脇田川の扇状地であり、まんざらこの説もすてたものではないものと思われる。ちなみに大島郡笠利町宇宿は「うしゅく」とよぶ。

(3)宇宿のなりわい

この宇宿は脇田川をはさんだ水田地帯と紫原、亀ヶ原の台地を中心とする農業地帯で、農耕を中心として生活を支えてきた、隣の田上は「たかな売い」で日をくらし、広木は「べら売いで日をくらす」といわれてきた。宇宿もそれらを売って日をくらしたのであろうが、近年になって吉野地域と並び人参の 有名な産地となり、特に脇田でとれた人参は「脇田にんじん」とよばれ、まっすぐで太く、人気も高いものであったそうである。人々はその「人参売い」で生活し、朝採れたての人参を洗うために脇田川の場所とりが大変な時期もあったそうである。

(4)島津藩時代の門制度

宇宿には他地区のように郷土は多くなかったようで、農民はそれぞれの「門(かど)」に編成され他藩にはみられない強力な封建的支配下に置かれていた。「門」には一名の「名頭(みょうず)」・・・別名(おつな)と何人かの「名子(なご)」がいて、それぞれが「家部(かぶ)」と呼ばれる単位体をなしていた。「名頭」はその責任者であり、代表者であった。宇宿にその当時幾つの「門」があったかは定かではないが、国料、上国料、斉之平、梶原、小森園、脇野、桶口、永仮、水口、木元、斉脇、斉野、浜田、森田、平田、今村、前迫、小斉平、大徳、浜島、福元、有満、住吉、潮満、中島、米満、浜平、笹平、田平、森園、図師の各門などがある。「西竹田村誌」によれば・・・広木(宇宿を含む)には庄屋・・・1、名主・・・4、名頭・・・18、と記録されている。

(5)宇宿商業の起源

藩政時代から明治時代初期にかけて、南の薩摩半島に行く道路として山川路(谷山街道)と伊作往還(伊作街道)の二つがあった。現在旧道と呼ばれるも のがそれで笹貫質のあたりで二つに分れ、一つは谷山病院から波之平を通って伊作へ、他の一つは小松原から谷山塩屋を通って山川への道である。明治35年に建てられた鹿児島県里程元標には谷山駅へは2里18町47間4尺と示されている。一里塚は鴨池電停裏にあり、二里塚は上塩屋電停付近にあった、というところから宇宿はこの交通の基幹が走る街道に位置していたので、藩政時代以降伊作・指宿方面から城下に出入りする人々のために茶屋や馬場があった。二軒茶屋、茶屋馬場、流鏑射馬場(やすさんばば)などの名が残っている。第18代島津家久は谷山の慈眼寺によく参詣され、その行列が脇田を通過する際、休憩され、お茶を飲んだ所が茶屋馬場で、代々の藩主がここで休想された のでその名が現在も残っている。その茶屋馬場は現在の上国料野菜屋から相互信用金庫脇田支店にあったようである。また「流鏑射馬場はグラハンパチンコ店から「今村だし」までの所をいったようである。二軒茶屋はその名のとおり郊外の休憩所として二軒の茶屋があった名残であるし、大正5年まではその近く(野村コーポのあたり)は「日光山」とよばれ動物園まであって市民に楽しまれていた場所があった。特に二軒茶屋はジャンボが名物であった。その後は住吉良吉宅、小斉平武雄宅の二軒の茶屋が南薩方面から来る馬車の休想所になった。二軒茶屋の次には今の南鹿児島駅付近に一軒茶屋があったということである。このことから現在の宇宿商店街の起こりは二軒茶屋に始まり茶屋馬場の流れをくむのがその起源となりそうである。その他の交通機関としては電車が大正元年12月開通、区間は6区間に分けられ1区間の料金は2銭と通行税1銭であった。市電になったのは昭和3年である。鉄道は昭和5年開通、昭和13年に山川まで通っていた。JR宇宿駅が開設されたのはまだ記憶に新しく昭和61年12月である。

(6)人口並びに行政史

古い時代の戸籍や住民数が記録されているものがなく、明治17年の鹿児島県令渡辺千秋編成の県地誌によると戸数・・・・・・本籍455戸、士族25戸、平民430戸、社1戸、人口・・‥・・(1020口、士族70口、平民950口)、女(1067口、士族78口、平民989口)の合計2087口となっている。同明治17年宇宿村となり、市町村制が実施された明治22年4月1日中郡宇村と称している。昭和5年中郡宇村の人口は戸数・・・1881戸、人口・・・10・706人となっている。

(7)宇宿の年中行事

1月 1日 初詣妙見神社
2日 塩祝・・・子供達が塩を入れたかごをもって「塩祝を祝ってくれ」と家々を回り、塩を貰ったらその代わりに餅や金包をやる。
6日 六日年
7日 七日正月または七日節・・・おねっこ・・・どんど焼き(上一地区で近年まで行っていた。)
11日 先祖祝い・・・鏡びらき
14日 十四日年・・・餅つき、けづいかけ、はらめうち
2月 節分
3月 桃の節句
10日 浜出張(はまでばい)
5月 節句
7月 六月灯
8月 七夕
中元・・・年末と同様一年間の中間決算期で商業上の取引を円滑にするもの
虫干
9月 妙円寺参り
八朔(はっさく)・・・田実節:昼夜の終わり、夜なべの始まり
十五夜・・・綱引きは綱を引くのではなく引きずるの意味らしい
10月 ほぜ(豊穣)
11月 亥の日
しめどつ
12月 冬至
大晦日

(8)宇宿町に現存する歴史的遺産(下記の内容については現在、調査中です。ご了承下さい)

鹿児島大学医学部とウイリアム・ウイリス

明治元年12月薩摩藩は英人医師ウイリアム・ウイリスを招聘した。明治2年京都相国寺に薩摩藩仮病院が設けられ、ウイリスが治療に当たっていた。後にイギリスに留学して大阪医学校長となった吉田範三は、この時クロロホルム麻酔の実際を見学して、その効験の神偉なるに 驚き、若いがために大いに刺激されたと、晩年思い出を書いている。明治3年1月小川町に赤倉病院を創設、医師への論告文など医学の啓蒙に尽くし医学専門学枚(現在の鹿児島大学医学部付属病院の前身)の開校への基礎を築いた。明治10年西南の役が始まって、ウイリスは鹿児島を去った。西郷降盛と仲の良かったウイリスがなぜか姿を消したかについては、諸説があるが判然としない。また、‘赤ヒゲ先生’の名で親しまれた ウイリスは、日本の医学博士第一号の高木兼寛を始め、数多くの優れた医学者を育て、無料施療を実施し、予防医学の重要さを説いては鹿児島上水道開設の動機を創ったのである。現在の鹿大医学部構内にはウイリスの碑の他にレリーフと肖像が飾られて、いる。(碑は医学部構内南東丘陵、レリーフは医学部基礎棟正面、肖像は図書館にある)

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